ブエノスアイレス発 ポサーダス 着 ミシオネス州 アルゼンチン 17/9/2019 車で国境のパラナ川に架かる橋を渡り パラグアイに入国 「エンカルナシオン」は1632年イエズス会により建設される 1845年鉄道開通 1959年貿易港として開港 現在物価が安いため 向かいのアルゼンチンから多くの買物客が訪れる
最近は南米中 文字だけのご当地サインが多い エンカルナシオン パラグアイ 17/9/2019
パラグアイ第3の都市 エンカルナシオン の町とバスターミナル パラナ川と対岸のアルゼンチン
パラグアイとはグァラニー語で「鳥の冠をかぶった人々の国」という意味で 何か布教時代の 原住民グァラニー族の生活風景がイメージされる
パラナ川沿いの公園の遊歩道 対岸はアルゼンチン ポサーダス の市街が見える
ブラジルの上流でパラナイバ川とグランデ川が合流してパラナ川となり これにパラグアイ川が合流して さらに下流でウルグアイ川と合流してラプラタ川をつくり 大三角江を形成し 大西洋に注ぐ この水系は国境も絡んで まさに雄大にして複雑です
沿道でマテ茶を楽しむ気さくな町の人たち エンカルナシオン 旧市街 17/9/2019
ラパジョ(ブラジルではイペ)のピンクの花が咲くバスターミナル
今南米は春 公園の植え込みも百花繚乱
旧市街 アルマス広場
エンカルナシオンの清楚なカテドラル
アルマス広場の一角に日本庭園
現在 エンカルナシオンの人口は約15万人で
約400人の日系人が住む
【歴史】①イエズス会とは1534年イグナチウス・デ・ロヨラが6人の同志とパリのモンマルトルの丘で誓約を立て 1540年ローマ教皇に認められた修道会で 教皇の下で特別の使命に答えて 神の栄光を求めた 主たる活動は反宗教改革運動としてヨーロッパにおける伝道と学校経営 そして アメリカ大陸進出に伴う異教地での布教であった 1599年発行の学事規則にのっとりほぼ全ヨーロッパの高等教育を一手に引き受けた パラグアイにはイエズス会の宣教師が 先住民グァラニー族に教えを説き 文明的キリスト教徒に教育しようとした「レドクシオン」と呼ばれる「ミッション村」が残る 意味は「再教育をするために隔離した場所 」主にパラナ川とパラグアイ川に沿って建設された
ここではインディオが共同生活を営み 農耕を中心とする自給体制(アウタルキー)のなかでカトリックを普及させた グァラニー族を集めて村を作り 学校、工場、宿舎、食堂、倉庫、住宅を建設し バナナ、マンディオカ、マテ茶等を栽培して共同生産活動を行った
因みに日本の上智大学は ロヨラと共にイエズス会の設立に関わり 日本にも布教にきたフランスアンシスコ・ザビエルの流れをくみ 内外のイエズス会教徒の尽力で 1906年 教皇によりuniversityの設立が認められた
またここは1986年に公開された映画「ザ・ミッション」の舞台となった所で有名
サンコスメ・イ・ダミアン遺跡
再建された大聖堂 (1632年創建)
【歴史】②17Cから1世紀半の間(1609~1768)にイエズス会によりパラグアイを中心に30のレドクシオンがつくられ約15万人のグアラニー族がその管理下におかれた レドクシオンを率いた宣教師たちは 労働者として 多くのインディオを必要とした植民者たちと抗争が頻発し 敵対するようになる 1767年イエズス会はスペイン国王によりアメリカから追放され 1773年には クレメンス14世により解散させられるが 1814年ピウス7世により復活し現在にいたる
サンコスメ・イ・サンダミアン レドクシオネス(ミッション村) 遺跡は エンカルナシオンの西約50kmのプラナ川沿いにあります イエズス会のスアレス神父により18C初めより 天文学が研究されたところでもあり 現在も石盤の日時計が残る
井戸跡
日時計
左が大聖堂(再建)
広場を巡る外回廊
再建された大聖堂には 17Cのミッション村当時のオリジナルの聖人像が残り インディオの風貌で仕上がったものは 今もなお純朴な感じをかもしている
主祭壇 両腕はご本体にさしこまれて 肘は伸びたままで実に素朴
左にはイエズス会の発祥の地 フランスのトリコロール旗が掲げられる
無原罪の御宿りの聖母マリア像
サタンを退治する大天使ミカエル像
サンコスメ と サンダミアン の彫像 両聖人の内側の手にある棕櫚の枝は 殉教者のアトリビュート
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手前 サンタバーバラ 像
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サンコスメ・イ・サンダミアン遺跡 聖堂前の広場
【農産業】パラグアイはそのほとんどが平坦な土地で 中央を流れるパラグアイ川によって東部と西部に二分され 国土の4割を占める東部には 人口の98%が居住し ブラジルとの国境沿いの地域には赤土の肥沃な土壌がひろがる アルゼンチンのパンパが肥沃なのは このパラグアイの赤土が パラナ川によって運ばれているためといわれている パラグアイではかっての綿花と畜産主体から 穀物生産を大規模に行う農業に移行している 東部では大豆を表作にし トウモロコシや小麦などを裏作にした 二毛作が多くの地域で行われている
国境を流れるパラナ川
小麦・トウモロコシ・大豆などが栽培される畑
放牧の牛 18/9/2019
穀物用サイロが道沿いに点在する
昼食のレストラン
たくさんのヴァリエーションのあるマテ茶の商品
【参考】トルデシリャス条約 1492年コロンブスのアメリカ発見をきっかけに スペインとポルトガルの新領地をめぐる争いが表面化して ローマ教皇に調停を求めた結果 1493年に教皇子午線meridianが決定したが スペイン側に有利な決定であったため ポルトガルは1494年スペインのトルデシリャスで再交渉し 教皇子午線をさらに西に移動修正し 西経46度37分を境界線とした そこから東側で新たに発見された土地はポルトガルに 西側はスペインに権利が与えられることになった 後にポルトガルがブラジルを発見し この条約がスペインが南米の大部分を ポルトガルがブラジルを領有する根拠 となった その後 両者が領土の一部を交換する(後述)ことでこの条約は無効となる
ヘスース遺跡に到着 パラグアイ 18/9/2019
ヘスース遺跡(ヘスス・デ・タバランゲ)は1685年に トリニダー遺跡(ラ・サンティシマ・トリニダード・デ・パラナ)は1706年に建設された
ヘスース遺跡は未完成で終わる
ヘスース遺跡 イエズス会のミッション村の1つ
ミッション村(レドクシオン)の分布図 現在のパラグアイ・ブラジル・アルゼンチンにまたがる
イエズス会は1767年スペインにより追放され ヘスースの建築は未完成に終わる
ミッション村想像図
イエズス会の ミッション村の建設が決定すると 先ず伝道師は 教会、コティ・グアス(統治者の住居)、学校、アトリエ、倉庫、搾乳舎、インディオ達の住居の建設を始め 教会の前の広場には中央に守護聖人や聖母の彫像が置かれた また伝道師はインディオに田畑を割当て 栽培方法や家畜の扱い方法を教えた フランシスコ派もやって来たが撤退している イエズス会の成功はインディオの言語や習慣・文化を尊重したからだと言われる パラグアイにおいては今なお原住民グァラニー族のグァラニー語はスペイン語とともに公用語である
緑に遺跡がよく映える 周辺はよく整備されていて 観光客が少ないのもまたいい ファサードの塔は鐘楼と下は洗礼室 右奥にはcolegio学校が見えている
入口の3つ葉のアーチはスペインのムデハル様式( 意味は残留者)の特徴の1つ 両サイドはニッチで飾られ アーチ上部の王冠レリーフはヴァチカン・カトリックを表す スペインから建築家を呼び指導させた
聖堂内部 身廊と側廊を分ける列柱は基礎部までで 未完成であることがよくわかる 中央はpriest司祭席と両側はsacristan聖具室
ドーム天井の付け根部の装飾
開口部の上部 と 両側の柱頭部は ムデハル様式でしょうか
聖具室のニッチの聖水盤 アーチには天使のレリーフ
壁は厚いが採光を考慮してか内側を広くとっている この上部にはまぐさが入る
右手前はpulpit説教壇
ヘスース遺跡
コームのアーチ・水平のリンテル・丸窓 多彩な設計
大聖堂から繋がる コレジオの外回廊
黄色の花が散り始めた ラパジョの木 こんなのどかな環境にある世界遺産も珍しい
トリニダー遺跡 インファメイション
トリニダー遺跡 大聖堂 復元想像図
トリニダー遺跡 配置図
トリニダー遺跡大聖堂 ポイント
騎兵と鉄砲を持ったスペイン兵が 発砲をしながら ミッション村の広場に攻め入っている 住居棟より白い服で弓矢を持った男の村民が引き出されてくる 女子供は中央に集められている 1767年に起こったシーンなのでしょう トリニダー遺跡の展示パネルより
グァラニーの住居棟跡
大聖堂の中庭部
大聖堂の外回廊に立つ
大聖堂の側廊部に立つ
身廊(nave)中央部から主祭壇方向
4人の福音者像で飾られた説教壇
エンタブリチャの装飾には楽器を使い 音楽を奏でる天使のレリーフが施され 何か楽しそう
下の開口部は聖具室の入口
この開口部のレンガ組は珍しい アーチ状でなく水平にしたため少しずれてはいるが アーチのキーストーンと同じ原理で上枠部のレンガはみんなテーパー状に作られ 自重で水平を保った
鐘楼 トリニダー遺跡 パラグアイ 18/9/2019
エンカルナシオン~アスンシオン へ移動 19/9/2019
休憩の店舗
10%の人口で60%の国土を所有 大規模農家の家の周辺には大きな木が生えている
柵のゲートから住居まで少し距離がある 車窓より
「独立の家」入口
独立当時のアスンシオンの町
地名は「アスンシオン・デ・マリア」聖母「被昇天」に由来
独立の家博物館 アスンシオン 19/9/2019 【歴史】1767年のスペインによるイエズス会の追放により ミッション村組織が衰退して スペインの統治下で植民地体制がより強化され 現在のパラグアイの前身的な領土が 形成されていった 1811年パラグアイ独立の英雄と呼ばれるロドリゲス・フランシアと仲間達がこの家に集まり 会談を行い 翌日スペインからの独立を無血で宣言した 独立後パラグアイは南米で最も産業化のすすんだ国となったが 1864年~1870年まで続いたブラジル・アルゼンチン相手の3国同盟戦争(パラグアイ戦争)に破れ 国家基盤は崩壊した
独立のための会議が行われた部屋 1772年のコロニアル風建築
当時使われていた家具やシャンデリア(蠟燭用)が残される
カテドラル フランシスコ法王も訪問したことがある アスンシオン 19/9/2019
カテドラルにしては堂内は明るい
外はラパジョの花が満開だが 洪水避難民の仮設住宅でアルマス広場は満杯 異常気象
パンテオンの今日の衛兵は女性でした
楕円のドーム天井はバロック風 ドーム天井のコラムとの取り合い部はヘスース遺跡と似ている
パラグアイのゴールド・エイジを作りあげたカルロス・ロペス大統領と息子フランシスコ・ロペスが眠る
ステンドグラスにも建国の英雄の姿が入る
大統領官邸
パラグアイ川から見る大統領官邸
アスンシオンで ピルコマヨ川がパラグアイ川に合流する 内陸国のパラグアイにとって貴重な河川の貿易港があり 農産物などの集積地で アルゼンチンの鉄道網と繋がる幹線鉄道の起点でもある
旧鉄道の駅舎 現在鉄道博物館
木造の客車両が保存されているプラットホーム
ノスタルジックなコロニアル建築が残る旧市街 アスンシオン
皮製品もパラグアイの特産物の一つ
キリスト教系の団体が運営する民芸センター
南米のFIFA本部が置かれるアスンシオン パラグアイ 19/9/2019
蛇行が延々と続くパラグアイ川 20/9/2019 アスンシオン~モンテビデオ
20/9/2019 ウルグアイ 上空
ウルグアイのウルは(ウルという鳥の名前) グアは(飛ぶ) イは(川) の意味
ポシートス・ビーチ 憩いの場だが海は土色
市場(Mercardo del Puerto) 1868年設立 港に面したところにあり シーフードもあるが むしろ焼肉( パリージャ)のレストランが多い 夜は締まるのでランチどきの賑わいはすごい ギター弾きも出る
ウルグアイの牛は平野部で飼育され柔らかい
煙と匂いと熱気の まさにシズルセールです
市場のすぐ前は 税関もあるモンテビデオの港湾地区 1726年ブエノスアイレスの総督により ブラジルからのポルトガル人の侵入を防ぐ為にモンテビデオに砦が築かれた 後貿易港として発展
ガウチョ博物館 (元々は裕福な未亡人の邸宅) バロックを基調としたアールヌーボー風建築 ?
ガウチョ博物館と貨幣博物館を兼ねている
バラスターの描くカーブが小気味よい木製階段
水で溢れた道を 棒で探りながら 後ろの牛や馬車を進めるガウチョ
ガウチョとはアルゼンチン、ウルグアイのパンパと呼ばれる地帯で牛の放牧に従事する牧童をさす
語源はガウディエロで「無法者」の意味 ガウチョはスペイン人と先住民の混血で 乗馬に秀で 植民地化がすすむ以前には 牛・馬・羊の繁殖により自由奔放な流浪生活を送った
ガウチョの服装
下の道具を投げ 獲物を捕獲する様子
これを投げ獲物の脚に絡ませる
牛の骨を使ったゲームに興ずるガウチョ
ガウチョが マテ茶を飲むために使ったマテ壺
素材・デザインへの拘りが伺える
ガウチョが使ったムチのグリップ
おしゃれなスパー
木のソリッドのルーバー窓から 建物の自画像
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ガウチョ美美術館とウルグアイ銀行のファサード
フランス人 マスーエ 設計
「7月18日」通り モンテビデオ ウルグアイ サルボ宮殿が見えている
サランディ通り
サルボ宮殿
憲法広場
広場のフリーマーケット
独立広場のサルボ宮殿とアルティガス将軍の騎馬像 モンテビデオ ウルグアイ 20/9/2019 【建築】サルボ宮殿は1928年マリオ・パランティ設計 26階 高さ96m 本物の宮殿ではなく 昔サルボ兄弟という実業家がホテルとして建てたが 現在高層棟はテレビ塔 低層棟はオフィスや住居になっている
高層棟が本体の中心にあれば建物としては安定感があるが 全く平凡なものになるのでしょうね 角部にあって広場との一体感を考慮すれば やはり名建築なのですね
旧市街の城壁(部分) ポルトガルの侵入を防ぐためにつくられた 独立広場 モンテビデオ
センテナリオスタジアム 憲法制定百年の1930年 第1回サッカーワールドカップが開催され ウルグアイが優勝
プラド公園 モンテビデオ開拓時代の駅馬車像
こちらは牛車像
コロニア・デル・サクラメント ウルグアイの南西部 ラプラタ川の河口にあるこの地は 1680年にポルトガル人によってポルトガル語のコロニア・ド・サクラメントの名で建設されたが その後対岸のブエノスアイレスを拠点とするスペイン人との間で争奪戦を繰り返した 現在両者のこしらえたものが混ざり合って残されている 1750年のマドリード条約により両国は ポルトガルのコロニア・ド・サクラメント及びフィリピン と スペインのアマゾン川流域及び ブラジル南部 を交換した このときラプラタ東岸の7つのミッション村がスペインからポルトガルに引き渡されることに イエズス会とグアラニー族は強い抵抗をしたが 1754年と1756年のグアラニィー戦争でスペイン・ポルトガル連合軍に破れ ミッション村は強制移住させられた これにより パラグアイ編で前述したように トルデシリャク条約は無効となった
コロニア・デル・サクラメント (通称コロニア)の地図がタイルに焼かれている
旧市街の東端に復元された城門は かって城壁に囲まれた町の入口だった
コロニアはもともとポルトガルの貿易港として発展したが 1777年スペインの植民地支配下に置かれた 岬の先端部分にあたる旧市街は植民地時代の街並みをよく伝える
復元された城壁の外側は空堀になっていて 渡された橋は 非常時には巻き上げられ門の扉となる ヨーロッパの中世の城と同じ
城門入口アーチ の上には ポルトガル王国の紋章が入ってくるいる この部分はオリジナルなのでしょうか それとも再現でしょうか
普通スペインの支配下になった時点で壊されるとおもいますが ?
共和制以前の
ポルトガル王国の紋章
右はポルトガル時代 左はスペイン時代 の石畳の道路
裏庭の出入口
不揃いの石壁はポルトガル時代
コロニアル時代の石壁の家 と 灯台 (1857年建設)
灯台と 植民地時代を再現した ナカレリョの家
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マトリス教会に向かう石畳の坂
マヨール広場 旧市街 コロニアル・デ・サクラメント 21/9/2019
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昼食のレストランのインテリア
17C末建設のサン・フランシスコ修道院跡 と 灯台.
西方向
灯台の展望台 北方向
南方向 フェリーターミナルが見える
ブエノスアイレスに向かう国際フェリー アルゼンチンの入国審査もここで済ませ ウルグアイの旅も終わる