第二次大戦後ソ連に抑留され この地での強制労働で没した 79名の日本人の眠る墓地がある ヤッカサライ通り タシケント ウズベキスタン 14/6/2014
ガンダーラ仏
クシャン朝時代(1~3C) テルメズ近郊のファヤーズ・テペ遺跡(タジキスタン)より出土
1Cバクトリアに大月氏がクシャン朝を興して以後ソグト人を介して仏教が広まる
脇侍を従えヘレニズムの影響をうけるアルカイックスマイルの阿弥陀如来坐像 (ライムストーン)
ウズベキスタン歴史博物館 タシケント (石の町の意味) ウズベキスタン 14/6/2014
上記仏像の発掘時の様子 ファヤーズテペ遺跡 テルメス ウズベキスタン
(上)BC2000年頃のもので フェルガナ地方出土
「エンドレス」の意味がある石のヘビのお守り
(右)資料未確認 ! 迦陵頻伽(サンスクリットの音訳)のレリーフ 仏教で説かれる想像上の鳥で極楽浄土に住み妙声をもって法を説くといわれる人頭鳥身の生物 ? 日本に伝わっているものと比べると随分素朴です
ウズベキスタン歴史博物館 タシケント
ティムール時代のイメージ展示 トランスオクシアナ(アムダリア川の対岸)を基盤に栄えたホラズム王国は 13Cにチンギスハンのモンゴル帝国に滅ぼされる その後14Cシャフリサーブズ出身の小貴族チムールがマラカンドからチムール帝国を興し 15Cその孫ウルグ・ベクのときに繁栄を極める
ナボイ劇場 第二次大戦後抑留された日本軍兵士の強制労働により1947年完成された
噴水は開いた綿花を表している タシケント ウズベキスタン 13/6/2014
バラクハン・メドレセ 16C シャイバニ朝 ソ連時代より中央アジアのイスラム本庁がおかれている タシケント
クカルダシュ・メドレセ 16Cシャイバニ朝時代の中心地で ソ連時代は倉庫 独立後神学校として復活
案内図 (下が西方向 オタ・ダルヴァサ門) イチャンカラ ヒバ
オタ・ダルヴァサ門 (西門) ヒヴァは外側の城壁(約6kmあったが今は殆どない)デシャンカラと内側の城壁イチャンカラの二重の城壁で囲まれた町 門は東西南北の4か所ある ヒヴァ
ゼロの発見は8Cにインドからアラビアに伝わったという定説があるが ここで生まれてアルゴリズムの語源にもなった科学者ムハンマド・アル・ホレズミがゼロを発見したという話である ヒヴァ
キョフナ・アルク宮殿のアイヴァンより
アクシェイフ・バハの見張り台
イチャンカラ アクシェイエフ・バハ見張り台より撮影 一際大きいカルタ・ミナル(短いミナレットの意味)は未完成のもの その手前にキョフナ・アルク(宮殿)のアイヴァン(イスラム建築のテラス)が見える アムダリア川の水系が変わり ホレズム王国時代の都クフナウルゲンチは14C放棄され 17C ヒヴァ・ハン国(1512~1920)の時代にヒヴァが都となる イチャンカラとは内側の城壁に囲まれた内城をさす 15/6/2014 ヒヴァ ウズベキスタン
キョフナ・アルクの城壁 17C ハンによって建てられた宮殿 「古い宮殿」の意味 中には公邸、 モスク、 ハーレム、くつろぎの間、兵器庫、造幣所 などがあった 左にカルタ・ミナル ヒヴァ 15/6/2014
イスラーム・ホジャ・メドレセとミナレット 1910年建立 ヒヴァで最も新しいメドレセとミナレット ミナレットはここでは一番高く45m 118の階段で登れる
民族舞踏ショー
ウズベキの「テルパク」という伝統的な羊毛帽子男性用 黒毛は冬用 白毛は夏用
女性用は「ドッピ」と呼ばれ四角形
民族衣装を着たウズベキの指人形
ここの人はみんな商売熱心です
ジュマモスク 木造の多柱式建築様式で柱の形状もユニーク スクィンチ風の天井梁も幾何学模様を描く 10Cに創建され18C末に現在のかたちになる 3m間隔の柱は全部で213本 内最古は10Cのもの 柱の模様は同じものはない 510062 15/6/2014 ヒヴァ ウズベキスタン
タシュ・ハウリ宮殿 「石の宮殿」 19C前半アラクリ・ハン建立 公務・謁見・宴会・儀式の場・ ハーレム など
アイヴァン 木枠の装飾天井・彫刻の施された柱と幾何学タイルの壁で構成されるテラス
ユルタの円形基壇 タシュ・ハウリ宮殿内
ユルタが張られていないのが残念
タシュ・ダルヴァサ門 南門でタシュとは「固い石」・ダルヴァサとは「関門」の意味 ヒヴァはホラズムの都になってから 18Cにペルシャに破壊された後も 19Cにロシアに降伏するまで奴隷市場がこの周辺にあった 「奴隷の門」の別名がある 十字軍の時代にソグディアナの商人(胡商)は(右続く)
タシュハウリ宮殿内 ヒヴァ ウズベキスタン
シルダリア川以北の遊牧トルコ人をマムルーク(奴隷兵)として供給して 中世イスラム世界の軍事力がマムルーク中心となる端緒をつくる ホラズムシャー朝は 1077年セルジュ朝より自立したマムルーク兵の出身の王朝
イスマイール・サーマニー廟 10C イスラム初期の建築様式 でゾロアスター的な雰囲気が残る 壁面を焼成煉瓦 (一度成形して乾かしてから窯で焼く) だけで様々な模様に積み上げている 四方の壁は一辺約10mでよく見ると垂直でなく少し内側に狭まっている 1925年発掘
霊廟内部 9C末にブハラを支配したサーマーン朝(875~999)のイスマイール・サーマニーが父親の為に建てた霊廟 ブハラとはサンスクリット語で「僧院」の意味
預言者ヨブの泉(チャシュマ・アイユブ) 旧約聖書
にでてくる預言者ヨブが 水不足のときに杖で叩いて水を出したという泉 ブハラ
アルク城 この辺はブハラ発祥の地で2000年前に遡るがこの建物は18Cのもの ソ連軍に攻略されるまで歴代ブハラ・ハンの居城であった
ウルグベク・メドレセ 1418年ウルグベクにより創建
女子高生の旅行グループに出くわす
カラーン モスクと ミナレット 12C カラ・ハン朝(10C中央アジアでチュルク系最初のイスラム王朝) アルスラン・ハン建立
カラーンはタジク語で「大きい」という意味
メドレセ内のフジュラ(僧房)
名物の刃物屋さん 自分が紹介されている日本の雑誌をみせる コウノトリ型の挟みが人気 このおじさんも女性に負けない総金歯でした
ブハラ ウズベキスタン 16/6/2014
カラーン・モスク 内部
ミル・アラブ・メドレセ 16C建設 末期ティムール様式 ハンが3000人以上のペルシャ人奴隷を売って建設資金にあてたといわれる ブハラ ウズベキスタン
ナディール・ディヴァン・ベギ メドレセ 17C 建設 偶像表現を禁じるイスラム教建築だがアーチ上部のタイル絵は驚きだ 2羽の鳳凰が白い鹿をつかんで 顔のある太陽にむかって飛んでいる
ラビハウズ ハウズとは「池」の意味17C 造営
ブハラ
ジャハンギール廟 ハズラティー・イマームモスクの中庭より ティムールが22歳の若さで戦死した息子のために建てた廟 ドルッサオダット建築群 「大いなる力の座」の意味
ティムールが自分のために用意した石棺だが 彼はサマルカンドに葬られた
シャフリサーブズ
ドルッティロヴァット建築群 「瞑想の家」と呼ばれるティムールゆかりの建築 シャフリサーブズ 17/6/2014
(上) 左側がシャムスッディン・クラル廟 14C ティムール建てる 右側がグンバズィ・サイーダン廟 ウルグベクが子孫のために建てる
(右) コク・グンバス・モスク ウルグベクが父のために建てた
シャフリサーブズ ウズベキスタン
アク・サライ・宮殿跡 白い宮殿の意味でティムールが残した
最大の建造物 入口のアーチ部分のみ残る 現存部分で高さ38m 壊れる前は50m以上といわれる
アーチ部分
左半分が現存部分(左の写真)
右半分が復元想像図
シャフリサーブズ
アミール・ティムール (グリ・ティムール) 廟 サマルカンド
黒いのがティムールの石棺
廟内ドーム天井の装飾
ブルーとゴールドのコントラストが映える
シャーヒズィンダ廟群 「永遠に生きる王」という意味の聖地 アフシャラブの丘東南麓にある サマルカンドはBC10Cにイラン系のオアシス都市として発展 BC4Cはソグド(地方)人の中心都市「マラカンダ」としてアレキサンダー大王遠征軍に抵抗し破れる 242年ササン朝ペルシャがクシャン王朝を破りソグド商人は ローマ・インド・中国の交易圏を手にする 8Cにサマルカンド王が「ソグドの王」を名乗るが ウマイヤ朝のアラブに征服される 751年ペルシャのアッバース朝が唐を「タラス川の戦い」で破り 捕虜の製紙職人によって759年サマルカンドでイスラム世界で最初に紙が造られたとされる その後9Cアッバース朝から別れた サーマーン朝、11Cにはウイグル国家滅亡後台頭した カラハン朝に征服されてチュルク化も始まる 十字軍時代はシリアの経由路が閉鎖され インドから黒海にいたる交通路にあったホラズム王国は首都サマルカンドを中心に繁栄する その当時の旧サマルカンドがアフラシャブの丘である 1220年にはモンゴルによって徹底的に破壊される その後ティムール朝の王族たちの廟となったのがシャーヒズィンダ廟である 中央アジアの長い歴史が刻まれている 18/6/2014 サマルカンド
シャーヒズィンダ廟のメインストリート
八角形の廟 15C
ビビハニム・モスク ティームールが寵愛した王妃ビビ・ハニムのために1404年建立 四隅にミナレッを配置
左下はウルグベクが寄進したラウヒ(コーランの書見台) 18/6/2014
レギスタン広場 レギスタン とは「砂地」の意味 モンゴルの襲来以後アフラシャブの丘からここに商業の中心地が移動し公共の広場となる (左)ウルグベク・メドレセ ウルグベクは王であり天文学者であった (中央)ティラカリ・メドレセ (右)シェルドル・メドレセ 「ライオンが描かれた」の意味 サマルカンド
シェルドル・メドレセ
ウルグベク・メドレセ
”撮り鉄”でも”乗り鉄”でもありませんが サマルカンド駅からタシケントまで利用したシルクロード・エキスプレス列車です タシケント駅 ウズベキスタン
駅構内の写真撮影は禁止ですが ホームでの写真はOK これは高速列車アフラシャフ号 タシケントとは「石の町」の意味 19/6/2014
グルドゥルサン・カラ遺跡 古代ホラズム王国 (BC3C頃繁栄アムダリア川下流域) の遺跡 BC2C~1Cの宮殿跡に AD10C~11Cの城壁が四方を取り囲む 16/4/2015 キジルクム砂漠
1992年カラカルパクスタン共和国成立 ウズベキスタン共和国の中にある自治区的存在で国民投票による脱退権を有する カラは黒 カルパックは尖がり帽子の意味から「黒いとんがり帽子を被る民族」となる
中は綿花畑とやぎの放牧場所に使われる
近所の農家の家族が集まってきた
アヤズカラ遺跡 キジルクム砂漠の端に位置する古代ホラズム王国 都城のひとつ キジルクムとは「赤い砂」の意味でこの辺はステップ気候地帯 6Cから7C頃のものが残る 10Cにはホラズム王国が興る(セルジュクトルコより自立) 右下に見えるのは小アヤズカラ遺跡 アヤズとは「激しい風」の意味 カラカルパクスタン 510063 16/4/2015
大アヤズカラ 城壁からの展望
小アヤズカラ
トプラク・カラ遺跡 古代ホラズム時代の宮殿跡や住居跡が残ります 白いところは塩の結晶です 510065 16/4/2015 カラカルパクスタン ウズベキスタン共和国内自治領
50の部屋跡が残る
遺跡が遊び場の子供達 ファションも決まる
放課後の帰宅風景 どこか楽しそう ヌクス
ヌクスの市場 たくさんのドライフルーツが並ぶ
船の墓場 ムイナク
水平線まで海が続いていたのに今は砂漠と化して 過っての港に漁船が残されるのみ
スターリンによる「自然改良計画」で砂漠の農業用地化の結果 アラル海は40年後もとの面積の
十分の一になる カラカルパクスタン ウズベキスタン内自治領 510071 17/4/2015
船の墓場 ムイナク 背景の高台はかっての海に突き出した岬 であった カラカルパクスタン ウズベキスタン内自治領
510072 18/4/2015
町ノ看板の波模様が泣いている
トレベクハムニ 廟 トレベクハムニ (モンゴルから迎えたクトゥルグ・チムールの王妃) の霊廟 10C~14Cにホラズム王国の都として栄える 1221年チンギス・ハンに攻められモンゴル帝国の支配下となる 16C アムダリア川の流れが変わり ヒバ(ウズベキスタン)に移された 16/4/2015 クフナウルゲンチ トルクメニスタン
クトゥルグ・チムール ミナレット 高さ67m 中高アジアで最も高いミナレット 16Cの地震で上部が少し傾く
スルタン テケシュ廟 クフナウルゲンチの最盛期1172年~1200年ホラズム王国 (セルジュク朝ヨリ自立のマムルーク)
現地の参拝客 クフナウルゲンチ
地獄の門 ダルヴァサ DOOR TO HELL 直径50~100m 深さ20m 1970年旧ソ連時代天然ガスの地質調査中に事故がおきて大きく陥没する 有毒ガスを除去するために1971年点火するが可燃ガスが今も燃え続ける この国はソ連崩壊後独立した新興国だがトルクメニスタンとはペルシャ語で「トルコ人に似た人々の国」の意味 510075 18/4/2015 トルクメニスタン
地獄の門 ダルヴァサ
ダルヴァサは古い一般的な地図には載っていませんがグーグルマップにはでてきます
ここまでクフナ・ウルゲンチから4WDでカラクム(黒い砂)砂漠を南進し約四時間半かかりました
近くにホテルはなく星空のテント泊です 510076 18/4/2015 トルクメニスタン
ニサ遺跡 遺跡は直径約500mの王城 東門から西方向を見る 旧ニサは5角形の内城で神殿・宮殿・宝物殿・醸造所あと等がある ニサはBC3Cに成立成立したパルティア王国(アルケサス朝)の初期の都 510077 20/4/2015 トルクメニスタン
「王の間」の四葉形の日干しレンガの円柱が残る ここでヘレニズムの影響をうけた「ニサのヴィーナス」や「象牙のリュトン」が発見されている 19/4/2015 ニサ トルクメニスタン
ニサ遺跡
一面赤いポピー(ひなげし)の花が咲き乱れてなかなかの風景ですが 匂いは最悪
後方はイランとの国境コペトダグ山脈 トルクメニスタン 510078 20/4/2015
リュトンは古代ペルシャやギリシャ時代に ワインを注いだ儀式用器 ギリシャ語の" 流れる”に由来
先端は別の彫刻された象牙のピースがつけられる ニサ遺跡発掘 トルクメニスタン国立博物館
アシハバードのメインストリート 白亜の建物が並ぶ
中立のアーチ 1995年国連で永世中立国の承認
マリィの街を歩く清楚な服装の女学生
コイネックという民族衣装です
ホテルで子供の誕生日を祝う裕福な家庭
宿泊ホテルで出会った 結婚披露宴 アシハバード
とはサンスクリット語で「愛の町」の意味
この作業着もなかなかファッショナブルだ マリィ
メルブ遺跡のジオラマ 手前スルタン・カラ 奥ギャウル・カラ 中央サンジャール廟 右が南 マリィ地域博物館
エルク・カラ BC10C~BC6C 右上円形部が最古部で アケメネス朝時代(BC6~BC4C)の城跡 当時メルブは「マルギアナ」と言われた
ギャウル・カラ内の小高い要塞跡 セレウコス朝(BC3C)の城壁は一辺が1.2kmの正方形でパルティア王国・ササン朝ペルシャを経て 7Cまで使用された
ササン朝時代のギャウル・カラ内にはゾロアスター教をはじめキリスト教(公会議で異端とされたネストリウス派) や仏教が栄えた メルブは仏教遺跡の西端の地としても知られる メルブ マリィ トルクメニスタン
大キズカラ (6C~7C) キズは「乙女」カラは「要塞」の意味 大キズカラは女性用 メルブはペルシャと中央アジアを結ぶシルクロードのオアシス都市「さまよえる町」と言われ 廃墟の古い町に隣接して新しく横に造られたので異なる時代の遺跡が同時に見られる スルタン・カラ メルブ遺跡
小キズカラ(6C~7C)より大キズカラを見る
小キズカラ 男性用 スルタン・カラ メルブ遺跡
スルタン サンジャール廟 1140年建立 セルジュク朝最盛期の王
2002年友好国トルコの援助で修復されている
規模 27m×27m×40m 20/4/2015 メルブ遺跡 マリィ トルクメニスタン
内部 ムカルナス装飾の天井と壁
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