コリントス運河 幅23m高さ80m長さ約6000m
水位が一定のため水門などはない 従来の半島のまわりより約400km短縮 観光船が主で年間約10000船が利用 鉄道橋と道路橋が架かる この運河の構想に紀元前からときの支配者が夢をみてきたが何度も挫折した経緯がある コリントス ギリシャ 7/10/2016
ペロポネソス半島の付け根の地峡部に位置し イオニア海につながるコリンティア湾とエーゲ海につながるサロニコス湾を結ぶ 現在も使われる
周辺は殺風景だが両岸の切り立った崖の迫力と水路のブルーの一直線は見ごたえがある
ローマ帝国ネロ皇帝の時代に着手され3.3km
掘削されたが 完成をみたのはギリシャ(1830年)独立後の1893年
アトレウスの宝庫(or アガネムノンの墓) ミケーネ時代(BC1400~BC1200)の様式の墳墓 傾斜した入口通路(ドローモス) アプローチはエジプト新王国時代の墳墓ににている BC1250年頃の建設 ミケーネ
内部は高さ13.4m直径14.5m 蜂窩状の疑似アーチドーム 表面は金・銀・銅で装飾されていた 奥には埋葬室につながる通路がある
まぐさ石の上部はの重量分散のため 持送り式の三角の空洞が設けられている 入口両側にはベースの上にコラムがあり 彫刻されたアーキトレーブが載っていた 古代エジプトの影響を受けた柱頭はペルガモン博物館にある
ミケーネ遺跡 シュリーマンによって(1873年のトロイの「プリアモスの黄金」に続き) アルゴス平野がひろがる丘のミケーネで 1876年「黄金のマスク」で有名な遺跡が発見された ミケーネ(ティリンス含む)がホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」の神話の世界と深く結びつくことが考古学的にも証明された
ライオン門 ( 礫岩製) ミケーネ宮殿遺跡 入口の上には一対の向い合うライオンのレリーフが彫られている ミケーネ 7/10/2016
円形墓地Aとアルゴス平野 エーゲ海につづくアルゴリコス湾も少しのぞいている
アガネムノンのマスクは1876年に上の写真の円形墓地Aの5号墓にあった死体の顔の上からから発見された
シュリーマンはこれを伝説上のアガネムノンのものと信じたのでこの名がつくが 実際はこれより古くBC16Cのものとされている
(アテネ考古学美術館にて撮影)
ミケーネ遺跡のジオラマ 中央上に.城壁 中に円形墓地A 中心部に王宮跡とメガロン(広間)
北門(内側より外側に撮る) 北門はBC1250年頃の第二期城壁工事のときに造られる 4つのアーモンド石の一枚岩で門が組まれている 門は二重の木製の扉で閉じられ横棒の環貫が使われた まぐさ石の上の三角形のレリーフの代わりに2枚の平板の石が端に縦に置かれ重量を2つの柱に分散した 中に入るとメガロンへと続く小さな内庭がある この城塞の2つの門に払われた特別な配慮は石の加工技術の高い専門性を証明している ミケーネ 7/10/2016
入ってすぐ右のギムナシオン(体育練習場)跡
左はブリタニオン(迎賓館)跡 オリンピア 7/10/2016
オリンピアの再現ジオラマ 中央に大きなゼウス神殿 その上(北)はヘラ神殿 右上スタジアム
フィリペイオン BC338年カイロネイアの戦いに勝利しフィリポス2世が建てる ゼウスの聖域で唯一の円形建物(トロス) マケドニア王国がギリシャの覇権を握ったことを示した アレキサンダーの時代で完成
ニンファイオン (ニンファエウム)
ニンフ(泉の神)を祀るが 給水設備も兼ねた
ヘラ神殿跡 BC7C末建造 ギリシャに残る神殿で最古 ここでオリンピックの聖火の採火が行われる
ヘラ神殿 案内板
ヘラ神殿(ヘライオン) ファサード想像図
アンテフィックス 修復再現 博物館内
赤子のデュオニュソスをあやすヘルメスの像 (プラクシテレス作 BC340~BC330 ローマ時代摸彫)
1877年発見される ゼウスから使者ヘルメスは 赤子のデュオニュソスをその養育のためにニンフのところへ連れていくことを命じられる 途中で外套を木の幹にかけて もたれかかって休んでいるところです
ヘルメスの上げた右腕はたぶん葡萄の束を持っていたでしょう それにデュオニュソスが手をさしだして未来の酒の神を暗示している
彫刻家は神の顔や均整のとれた身体からオリンピアの平安を表現することで この像の美しさを引き出している
表面を高度に磨き上げることでプラクシテレスの作品の優雅さと柔和さを増している
高さ:2.13m
ヘラ神殿の地下に置かれていた
オリンピア 考古学博物館
ゼウス神殿跡 BC470~457年建造 オリンピアのゼウス像は世界七不思議の一つでBC435年にペイディアスにより建造
古代オリンピックの競技を奉納する本尊とされた 安置されたなかのゼウス像はAD394年オリンピアからコンスタンチノープルに移されてから消息は不明 オリンピア
(上)ゼウス神殿ファサード 再現図 (下)ゼウス像透視図
ゼウス像は本体は杉で表面は象牙で覆われた 座席は金で右手にニケの彫像 左手に鷲のとまった錫杖を持っていた
ゼウス神殿 東のペディメント の彫刻 (ファサード側 ) 古典期 オリンピア考古学博物館
上の写真の復元想像図
オイノマオス王 と ペロプス の 戦車競走出陣の場面 中央:ゼウス 右:ペロプス 左:オイノマオス王
ゼウス神殿 西のペディメントの彫刻
半身半馬 の ケンタウロス族 と ラピタイ族(アポロンの子を祖とするテッサリア地方の剽悍な半神話的民族)と の戦いの場面 中央に立つのはアポロン 古典期 オリンピア考古学博物館
ゼウス神殿西側4番目のフリーズのメトープ ヘラクレスと牡牛の二者の対決は右に逃げる牡牛を配置して画面いっぱいに表現されている
(ヘラクレス12の難行の1つ クレタの牡牛を生捕る場面) 英雄ヘラクレスは右手のこん棒で牡牛をけん制しながら 鼻ずらに結ばれたロープをたぐりよせて 牡牛をならしている メートープの背景は青で牡牛はチェスナットレッドの彩色であったと思われる オリンピア 考古学博物館
ニケの像
ギリシャ神話の勝利の女神で有名でアテナ神の髄神です 有翼像で表現されますがこれは欠損していましす オリンピア考古学博物館
ガニメデスをさらうゼウス像
トロイの美少年ガニメデスはゼウスにさらわれオリンポスの神々の宴会で神酒(ネクタル)のお酌をさせられる みずがめ座で水がめを持っているのがガニメデス
現在のスタジアムはBC5Cの時のものです 両側の土手の観客席は南側(右)の審査員席と北側(左)のデメテルの祭壇部を除いて石は使われていません 収容人数は約45000人
スタートラインとフィニッシュラインの距離は約192m
競技場の記念碑の入口はヘレニズム期の後期に建てられた
Rion Antirion Bridge 実に形式的なネーミングですが斜張の線が美しい パトライコス湾を南岸のリオンから北岸のアンティリオン側渡る 北岸を 東に曲がればナウパクトゥス ( レパント )がもうすぐ8/10/2016
(参考)レパントの海戦
1538年にプレヴェザの海戦(オスマン帝国勝利)・1565年にマルタ島のグレートシーズ(聖ヨハネ騎士団勝利)があり
1571年のレパント沖海戦ではフェリペ2世のスペインはヴェネチア・ローマ教皇の連合艦隊とともにオスマン帝国海軍を1日で破った 約3万のオスマン帝国兵士は捕虜となり ガレー 船のこぎ手であったキリスト教徒の奴隷約1万人が解放された(ガレー船が主力の最後の海戦であり 艦砲が使われた最初の海戦)
こんな狭いパトライコス湾口の海域でどんな海戦が繰り広げられたのでしょうか パオロ・ヴェロネーゼの画がヴェネチアのアカデミア美術館にあるみたいです 因みにスペインの作家セルヴァンテスはこの戦いで左手を失い 以後4年間転戦しチュニジアで捕虜になり 解放されてのち「ドン・キホーテ」を出版
イテアの町とオリーブ畑 後方 コリンティアコス湾 デルフィーに向けてバスは次第に高度を上げていく
デルフィー遺跡 復元ジオラマ (博物館内展示)
古代デルフィーの想像図 中央にアポロン神殿 この地では「アポロンの神託」が行われ 遠くは
イスパニアや黒海沿岸地方からも巡礼者が訪れ 奉納品や祈祷料で潤い BC6C頃全盛期をむかえた 神託はAD381年にビザンチン帝国テオドシウス帝によりデルフィーが閉鎖されるまで続いた
アポロン神殿跡 全景 後方は フィドリアースの岩山
アテネ人の宝庫 アテネがBC490年マラトンの戦いで勝利したのを感謝してアポロン神に捧げた
アポロン神殿跡 と パルナッソス山
デルフィー
古代劇場 約5000人が収容できピューティア祭や音楽のコンテストが開催された
ナクソスのスフィンクス 像本体の高さ 2.3m
イオニア式円柱の高さ 12.1m アルカイック期
BC560年頃 シフノス人が宝庫を建設する前にキクラデス諸島のもう一つの富める島ナクソスからデルフィーのアポロンに捧げられたもの
謎めいたほほえみの女性の顔に ライオンの胴体と足とそれに翼を持っている怪物
悪魔よけの守りの像であったと思われる
イオニア式の柱頭の上に置かれていた
(下)北側フリーズの主題はティタノマキア でガイアの子ティタン神族とオリンポス神族の戦いを描く
シフノスの宝庫 歴史家 ヘロドトスに「超豪華」と言わしめた数あるなかの宝庫 BC6C中頃
ペディメント(三角形の上部) は東面のみが残る ヘラクレスがイピトス殺しの償いをしていないことで ピティア(巫女)に神託を拒まれて激怒し 予言に使う鼎(tripod)をひったくり アポロンがそれをとりかえそうと争い ゼウスがその仲裁に入っている場面
(下部)のフリーズはトロイ戦争の場面が描かれている 左端からトロイ側についた神々で 盾を持つアレス、アフロディーテ、アルテミス、アポロンと並ぶ 隣中央のゼウスから右へ ギリシャ側についた神々でポセイドン(欠落)、アテナ(ヘビを持っている)、ヘラ、デメテルと並び ここまでが神々の集会の様子 ここから右へは戦いの場面 メデゥーサの顔の描かれた盾を持っているアキレウスが印象的
(上)東面のペディメントとフリーズ
(下)シフノスの宝庫の北面のフリーズのテーマはティタノマキアでティタン神族とオリンポス神族の戦いです 野蛮と無秩序に対しての文明と秩序の勝利を象徴しています
ライオンに引かれた戦車にのるキュベレ 右には4人のティタンに矢を射るアポロンとアルテミス
ヘラが倒れた敵にとどめを刺そうとしている
その横にアテナが戦っている
アルゴスの兄弟の像 クレオビスとヴィトン BC6C
アルカイック期
ディオニュソスの像
踊子たちの柱 BC335 アテネからの奉納品 柱の土台と先端には(中間にも)アーカンサスの葉と茎が装飾されている 古典期 (下) 参考 アテネ アクロポリスで見つけたアーカンサス
(右) 赤絵の陶器 クレタ BC420年頃
中央の「大地のへそ」の左方向にアポロンとヘルメスが 右側にアルテミスとレトが描かれている
大地のへそ(オンファロス) ヘレニズム又はローマ時代の複製品 世界の中心を誇ったデルフィーのシンボル 網に似た羊毛の帯を模した浮彫りで装飾されている アポロン神殿の一番北の(巫女が神託を出す)内陣に聖なる鼎と神託の月桂樹とともに置かれていたとおもわれます ギリシャ神話では ゼウスが地上の中心を決めるために 二羽の鷲をそれぞれ違う方向に放ち その二羽が再び出会ったところに 天から石を投げたのがデルフィーであった またこの石の下にはガイアの息子ピュトン(大蛇)や この聖域で二番目に重要なディオニュソスの墓があったといわれる
アルテミス 黄金と象牙でできている
アポロン ゼウスとレトの子 アルテミスと双子の姉弟
青銅の御者像 ギリシャ 古典期.
(上)アギアスの像 パングラティオ競技の優勝者 子孫による奉納品 BC4C
(左)シシリア島ゲラの僭主 ホリザノスはBC478年ピティア祭の戦車競技で優勝し 青銅製の4頭立て戦車像を奉納する
アッティカ式盃 BC480年の副葬品 白地技法の陶器
左手に竪琴を持つアポロンが右手で大地に酒を注ぐ 向かいに黒いカラスがいる ギリシャ神話ではアポロンは 恋人テッサリアのコロニスの浮気を 見張りのカラスから聞き コロニスを矢で射殺したが 後になって不確かな告げ口をしたカラスに憎しみが行き もともと白色であった カラスを黒色に変えて永遠の喪にふくさせた
アンティノオスの像 (ハドリアヌス帝の寵臣)
オシオス・ルカス修道院 後方 ヘリコン山
ギリシャ正教 10C ルカスにより設立される
中期ビザンチン建築のマスターピース
中央聖堂は4つのスクィンチと4つのアーチを架け直径9mの八角形のドームを載せている 内部の天井には11Cのモザイク画がのこる
中期ビザンチン建築 聖堂外壁は石材の水平・垂直方向をレンガで縁取るクロワゾネ積みの技法が用いられている 軒蛇腹の水平方向には犬歯形のデンティルがほどこされている これらはバルカン半島南部の教会堂に多くみられ アッバース朝イスラムの建築様式の影響 8/10/2016
ヒンドス山脈の麓にひろがるテッサリア平原の奇岩地帯 メテオラ観光の拠点 カランバカの夜明け 9/10/2016
メテオラは「空中につり上げられた」という意味 9C頃から修行者が住み始め 14Cにはセルビア人の侵攻で避難修行者がふえ またアトス山から聖アタナシウスが移住し メガロ・メテオロン修道院を建てたのを期に 修道院が増え始め 最盛期には24にも達した 現在は6つの修道院が使われるのみ
メガロ・メテオロン(キリスト山上変容メタモルフォシ)修道院 メテオラ最大の修道院でアトス山の建築様式を受け継ぐ 1923年に階段ができるまでは 直立のロープのはしごで上がるしか方法がなかった
荷物の上下用のロープを吊るす腕木が突き出ているのが見える
現在の教会は16Cのもの
外回廊のフレスコ画
ヴァルラーム修道院 14Cヴァルラームの隠遁所跡に建てられた修道院
アギア・トリアダ修道院 断崖の間にカストラキの村が見える
アギオス・ステファノ修道尼僧院 ここからはカランバカの町とビニオス川が一望できる メテオラ
左下から アギオス・ニコラオス修道院、 ルサヌ修道院、一番上が メガロ・メテオロン修道院
メテオラの奇岩地帯
道路案内に右下「テルモピュライ」の表示 テッサリアからアッティカに抜ける幹線道で 第2回ペルシャ戦役で レオニダス将軍率いるスパルタ軍「スリーハンヅレッド」が アケメネス朝クセルクセス王のペルシャ軍を迎え撃ったところです
奮闘むなしく大軍の前に全員討ち死にをしましたが 敵の進軍を食い止めるための英雄的行為は今も称賛されている バスは止まらなかったが 史跡にはレオニダスの像が立つ
持ち込み荷物の検査が終わり 乗船
救命具の装着訓練 6ヵ国語で最後に日本語
船内の受付 船内では全て専用カードで決済
両側にキャビンが並ぶ通路 10/10/2016
大型クルーズ船が接岸する ピレウス港
エーゲ海の定期航路図
旅情をさそうミコノス島の夕日 これは乗ってきたクルーズ船ではありません 念のため !
ミコノス港からタウンまでの地図
港に建つセント・ニコラス教会
パラポルティアニ教会
カト・ミリの丘 6つの風車のある海辺の風景 (一つ屋根がない?) ミコノス島 10/10/2016
一人見えてないのが残念 !
鮮魚店の主 魚と同じで姿勢がいいです
・
18Cまでミコノスはヴェネチア領であった リトル・ヴェニスの賑わいは昔も今も変わらない ヴェネチアンボート
ミコノス島 ヌーディストパラダイス long time ago
[レトロ]
「ヌーディストパラダイス」と聞いても今は何の話題性もないでしょうね
当時はヨーロッパ中から集まってたみたいです
丸裸でビーチヴァレーをしている人もいました
ここに入るには自身もヌーディストにならなければいけないので大変な「勇気と決意」がいりました long time ago ミコノス ギリシャ
クシャダシ港 トルコの領土だが クルーズ船が多く寄港する エフェソスなどへの観光拠点 11/10/2016
港にはトルコの国旗が風になびく
二階から陽気な旅行業者の呼び込み
ギュヴェルジン島 「鳩の島という意味」 14C ヴェネチア人の築いた城塞が残る
昔のキャラバンサライの跡がバザールになっている
大型船に挟まれるとまるでビル の谷間にいるようです
クシャダシを出港してパトモス島に向かう
「本物の偽物」時計店 何店もあった
こちらは「本物の」ザクロジュース
それにしても3人がかりで売っている
「ただいま・・・海峡を通過中」と船内アナウンスが流れる 左 プシリアモス サモス島(神話ではゼウスの正妻ヘラが生まれ、歴史上ではエピクロス、ピタゴラスの出身地) 最短幅1km 右 小島と トルコ側
パトモス島の港 乗ってきたクルーズ船が停泊している
聖ヨハネ修道院 入口のタンパン
手にしているのは「黙示録」でしょうか
12使途の聖ヨハネはキリスト教の伝道を禁じられパトモス島に流刑となるが この島で啓示を受け洞窟にこもり「ヨハネ黙示録」を執筆したとされる
小アジア出身ノ僧侶クリストドゥーロスが 1088年コムネノス朝のビザンチン帝国皇帝アレクシウス1世からパトモス島を譲り受け 聖ヨハネに捧げる修道院を建設 外壁を外敵から守るように堅固こしらえたので城塞のようです(第1回十字軍の8年前)
・
アーチで建物を支えあう白壁の中庭
・
修道院からスカラの町の眺め
アポカリプス洞窟の入口への建物
最上部にあリ 下からもよく見える鐘楼
1世紀末(ドミティアヌス帝の頃)に書かれた「ヨハネ黙示録」は「新約聖書」の中の最後の1書である
ローマ帝国により異端とされパトモス島へ流刑になり 神からの啓示を受けて 洞窟にこもって 黙示録( アルマゲドンで知られる新約聖書唯一の預言書 )を書き上げた
それは小アジアにおける7つの教会に送られる書簡という形をとっている
リンドスのアクロポリス リンドスの町はBC10C頃ドーリア人により建設され アクロポリスは要塞として 古代ギリシャの時代からローマ帝国、ビザンチン帝国、聖ヨハネ騎士団、オスマン帝国と利用されてきた 14Cにはヨハネ騎士団がオスマン帝国に対峙し ロードスと同様城壁を築き要塞化をすすめた
リンドス 12/10/2016
リンドスのアクロポリス 案内板より
パナギア 教会 入口は小さいですが立派な塔のある村の守護教会
アクロポリスへの登り道 中腹で振り返るとリンドスの白壁の村が一望できる しばし休憩!
坂道がこたえる人は ロバも使える 日除けのオーニングがありがたい 両側には土産物屋やレストランが立ち並ぶ
城壁入口への階段と アクロポリスの岸壁に残るエクセドラとガレー船のレリーフ
コンスタンチノープル陥落後の1474年オルシーニ( ヨハネ騎士団長)の命でビザンチン時代の城壁の上に塁壁が建てられ ロードスで一番堅固な城塞となり 周辺の村々からの避難所として機能を備えた 入口上部にはこの時できたと思われるマチコレーション(突き落とし狭間) が見える
城壁上部の騎士団時代の紋章 フランス王家(バロア朝期)のフルール・ド・リスが彫られる
左側のエクセドラ(半円形のベンチ)部 と右側の
ガレー船尾部の 正面全景
エクセドラとレリーフを上から見たところ BC2C
ヘレニズム期
「案内板ヨリ抜粋」 このレリーフが ガーレー船の船体に刻まれた文から ロードスで名の知れたティモカリスの息子ピトクリトス の作であることがわかる BC190年ロードス人がSideの海戦の勝利を記念して サモトラケ島のカベイロイ神殿に奉納したニケの像が 現在ルーブル美術館にあるニケの像と同じものなら それもまたピトクリスの作である可能性があると言う学者もいる
このガレー船はおそらくロードスで造られそ のスピードと操縦性はすぐれていた 乗組員は144人でこぎ手は2列の長列と中央部の短列に配置された
このレリーフは本 来ロードスが海戦で勝利したときの 英雄ミキオンの息子アゲサンドンドロスのブロンズ像のための台座として作られた 右船尾の筋(アフラストン)は細かく表現され 赤の顔料の痕も残っている 船長席は鳥の翼のような形で豪華に飾り立てられている ロードス人の船に対しての美的な表現は当時の海事の伝統と軍船の能力に密接につながっている
石を切り出してこしらえた半円のエクセドラは 籠のようにみせたアルコーブに置く像の基礎としても使われ また聖地に巡礼にきた人々のしばしの休憩のためのベンチとしても供された
城門を入るとリンドスの港が眼下に広がる
東西88mの列柱廊 (ストア) 32の大階段があり プロピュライア(門のある建物)へと導く
リンドスのアテナ神殿
アテナ リンディア 復元想像図
パムフィディダスのエクセドラ
バス停までの帰り道はこのおじさん いや 右側のメスのロバ(14才)の世話に.なりました
ギリシャ (後編)へ つづく ・・・・・・・・・・