空路アディスアベバから エリトリアの首都 アスマラに向かう エリトリアという国名はイタリアが1881年 植民地支配にあたり ラテン語の「紅海」にちなみこの名をつける 後1941~52年イギリスの統治があり 二次大戦後の国連討議により 1951~1991年エチオピアに統合される 独立闘争を経て 1993年独立 1918年エチオピアとの関係正常化で合意 エチオピア航空機ヨリ 4/11/2019 エリトリア国
紅海に約1350㎞の海岸線を持つも見えず
まだまだ一般の観光客はすくない
【語源】「アスマラ」はアフリカの奴隷制度時代につけられたティグリーニャ語の名前で 「女たちが男たちを団結させた」Women united men という意味 奴隷時代に女(母)が奴隷商人から自分の娘や息子を守るために 男達を団結させたという逸話がのこる
アスマラは熱帯地域にあるも 2325mの高地で過ごしやすい 昼食のレストラン
坂の上に建つ グランドモスク (1937年)
生活用水の給水 ドラムからバケツで各家庭に
このモスクは 女性は立ち入れない
ドームから入る光はやわらかい
モスク入口のキャノピー コラムもヨーロッパ風
モスク から見下ろす 広場
内部の色彩は西洋のフレスコ画の感じで パステルカラーともいえる
聖マリアコプト教会 (エリトリア正教の教会) 屋根は伝統建築をシンボル化している アスマラ エリトリア
2つの塔を持つイタリア植民地時代後半のモダニズム建築 【歴史】1869年スエズ運河ガ開通するとイタリアはアスマラを基点としてエチオピアに侵入し 1885年植民地支配を始める エチオピアは1890年エリトリアをイタリアの支配に委ねる 【文化】その後 首都アスマラはイタリア人の人口が60%を占めるようになり イタリア首相ムッソリーニが「第二のローマ」化をかかげ 1920年~1930年代にイタリアの新進気鋭の建築家によるアールデコ建築や 未来派建築がたてられた これが現在では貴重な観光資源となり 「アフリカのモダニズム都市」として世界文化遺産に登録されている
ファサードのモザイク画は 1950年代イタリア人による
内部は修復中 イエスの生涯の宗教画
会話を楽しむひと時 日射はきにしない
バスを待つ人々 若いファッションも混じる
鐘楼が入っていたような建物が入口になっているリサイクルセンター アスマラ 4/11/2019
自動車もあるが 馬車もまだ使われる
リサイクルセンター内
確かにリサイクルだが鉄廃材が主で終戦直後の日本のレベル 今はアフリカもプラスチックゴミが重要な問題となっている
唐辛子を売る店 キツイ匂いが漂う!
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これはリサイクルではない エリトリアはイタリアの影響で自転車競技が盛んで この国にしては比較的いい自転車が使われている ママチャリの類は全く見ない
マーケットも道路側はイタリアのポルチコ様式になっている 日本人が珍しいのか声をかけてきた
マーケット風景 ポルチコにも商品がギッシリ
マーケット(スーク)に乗り入れるバス
カテドラル イタリア統治時代1923年に建てられたセントジョセフ教会 修道院でもある
11~12Cイタリア起源のロンバードロマネスク様式 ハルネット通りに面しアスマラのシンボル
屋根中央部に大天使ミカエルの像が建つ
ロマネスク様式のカテドラルとゴシック様式の鐘楼
今日はミサが行われていた
サヴォイヤの次にムッソリーニ の名前が刻まれる
修道院ライブラリー側から見たカテドラルのファサード
天井のトラスは木造 赤と白の縞柄はモスク風
茶目っ気たっぷりの町の子供たち みんなウェアがきまっている カテドラルの階段にて
カテドラルの敷地内にある併設の小学校 「写真はダメ!」と先生に𠮟られる
泊まったホテルの前にあった建築物 財務省関税局 4/11/2019 アスマラ エリトリア
アスマラ・シアター 歩道の入口から見上げるファサード 両側へのアプローチの階段と中央に植込み 1920年Oduard Cavagnan の設計 シンメトリーが際立つファサードはロマネスクやルネサンスなどの多様なスタイルが融合している イオニア式のコラムに支えられたローマアーチも印象的 元はアスマラ初の劇場として建てられるが 1930年代に映画館に改装される 現在は再び劇場として利用される
平行する赤の曲面と丸天井のコンビネーションはすばらしい
天井には8人の踊子と8羽の孔雀
アポローチ前庭の飢え込み
側面にもバルコニーガ設けられる
中央郵便局 イタリア時代のものだが今となってはイタリアよりイタリアらしいのではと思う
入口中央通路 中もレトロそのもの 色調もグランドモスクと同じフレスコの感じがする
鉄枠の扉とトランサムに入るガラスは見事に調和
切手収集が流行った時代でしょうか
私書箱は家具調キャビネット
カウンターの腰は派手な石目の大理石だがこれがアクセントになり全体を引き締めている
ロビー中央にすわる木製のライティングカウンター
「アフリカで一番美しい」郵便局にしたい
エリトリア商業銀行 1910年代に建てられる
エリトリア銀行 ムーア調を感じるネオクラシック様式
現在はアスマラ大学の事務所と校舎 5/11/2019
見学をしたホテルのロビーとレストラン 1899年アスマラで石造最古のホテル アルベルゴ イタリア
床の大理石のモザイクはすばらしい ホテル アルベルゴのロビー
グレーのステップとハンドレールがアクセント
瀟洒なパティオ 雨樋もコパー製
アールデコ調のインテリア
シネマ・インペロ アスマラではイタリア時代の映画館がいくつか残る 内2つが現役
シネマ・インペロが面するハルネット通り
大理石が贅沢に使われているロビー
年代物の映写機
さすがに椅子はくたびれている
シネマ・ローマ こちらもまだ現役 右横の小スクリーンはテレビのスポーツ観戦用 5/11/2019
ロビーカウンター まさかエリトリアで映画館をはしご見学するとは思わなかった
35mmイタリアSaroni社製の映写機が展示される
1905年に建てられたシナゴーグの存在はかってエリトリアに住んでいた500人を超えるユダヤ人たちの存在をいまに伝える ダビデの星とメノラーが門扉に装飾されている
バルコニーの腕木や開口部廻りの装飾はイタリアンバロック ライオンとアーカンサス 天使ケルビムの彫像
旧アドゥア広場 周辺にも イタリア建築が並ぶ
同様の装飾が他にも 旧アドゥア広場
フィアットタグリエロ 1938年建設 当時世界一豪華といわれたガソリンスタンド 柱を使わず翼の様な屋根を持つ イタリア人建築家 による 左右の片持ち梁式の翼は30mになる
戦車の墓地 30年間の戦争の廃棄兵器
戦没者イタリア人墓地 イタリア国旗ガ掲げられる
アスマラ郊外の露店市
脱穀風景
アスマラのレストランのコーヒーセレモニー エリトリア
飛込みで撮らせてもらったバーバーショップ
ジブチの空港 ジプチ市 ジプチ共和国
ジブチのホテル 着 ACACIAS HOTEL 6/11/2019
ホテルの部屋からの眺め プライベートビーチだが海は汚いし ゴミが浮いている
ホテルの外観はいいのですがサービスのクウォリティーはマダマダ・・・ジブチ水準
貿易立国に欠かせないのが港湾施設
この国はアフリカのシンガポールを目指しているが アフリカの北朝鮮とか揶揄される
中国からの資本でインフラ設備が進む
ジプチ共和国 1997年仏より独立
人口90万
イッサ人60% アファール人35%
イスラム教徒 94%
食料自給率 3%
農産物はほとんどエチオピアからの輸入
港湾の埋め立て完了の造成地 港湾の70%がエチオピアの輸出入関連 30%が米・仏軍関係の艦船や日本の護衛艦 7/11/2019
こんなところで ラクダの集団移動 !
エチオピアとジプチ港湾を結ぶ延長中の鉄道
中国資本による産業団地 オフィスビルもほぼ完成している 反対側の居住区も完成
道路ぶちにうんざりするほどみえる ソドムズアップル 毒性注意でもこれはビッグサイズ!
ベルベデーレ サル 渓谷自然動物保護区
クベ湖 半島の向こうはタジュラ湾
左にディアブル島が見えている クベ湖
車は次第に高度を下げて海抜マイナスのエリアに
近くの窪地で47度Cの源泉が湧き 小魚も棲む
強風で丸くなった塩を売っていた 直径2㎝
雨水がたまり高温になって流れ出す
アファール族妊婦も安産のために使う沐浴場
中国系資本の製塩所 過ってはここからも塩運びのキャラバン隊が出たそうだ
いよいよアッサル湖
アファール族の丸い住居
浅瀬から塩原がひろがる
塩と濃い塩水の境目
塩湖の水にグラデーションがついて実に鮮やか 境目は人工の堰 アッサル湖
アッサル湖
左のタジュラ方向へ
再び クベ湖とティアブル島が近くに
タジュラ 塩のエキスポート ターミナル
建設中の貯水池
アファール族の集落
集落近景
集落のモスク 7/11/2019
アルドコバ火山周辺の火山岩の大地
1978の噴火でできた亀裂 7/11/2019
今日はあらためてジプチを南方向へ出発 斜面にFADの 置石マーク 志願制のForce Army Djibouti の略 近くに軍の訓練場がある ジブチは隣国エリトリアと領土紛争があり ソマリアにはテロ軍団がいて侵入の恐れがある また内紛のイエメンやエチオピアとのロジスティクスも重要 サウジアラビアの援助もえているのでRiadのマークもあるのか Petit Barra プチ バラ 地帯 8/11/2019
土漠地帯にはまだ遊牧民もいる
時折りつむじ風も舞い上がる
溶岩石地帯もある
ジブチ方面に向かうトラックは絶えない
久しぶりにみた「蜃気楼」 地面とその上の気温差が大きいとき 光の屈折現象で現れるそうです 地平線に水はありません プチバラ(小さい砂漠)からこの辺で Grand Barra Depression グランバラ(大きい砂漠) 地帯に入る
ジプチはステップ気候と砂漠気候が入り混じる
先史時代の住居遺跡 言われると確かに石が円形を描いて並んでいる
失礼ながら想像するに 今のアファール族の住居も大差(進歩)がないように思う
住居の基礎らしき石の敷設があちこちに見られ 集落であったようです
未來の「空き缶遺跡」
帰り道でに気になった地形
途中で見た ソマリアからの難民キャンプ 改めてソマリアとの国境が近いことをを感じる
ディキ村の広場
ディキ村のモスク
まだ裸足の子供も多い
アリサビエの町 使われていない線路は山羊がすわりこみ 老人が散歩する
【民族と政治】イッサ族はジプチ市周辺に住みほとんどが遊牧生活を営む アファール族はダナキル砂漠を中心とした乾燥地帯に住み エリトリア南部・エチオピア東北部・ジプチ西部に渡る ジプチでは35%がアファール族・60%がソマリ系のイッサ族が占める 仏領時代にはアファール族が実権を握ったが 独立後は数的優位でイッサ族が政府を牛耳る この民族対立から1991~2001年には内戦が続いた 和平は成立したものの 対立構造は残ったままとなっている
通りのレストラン
写真スタジオ
洋服仕立て販売
これは何?
先史時代のキリン・マンモスなどの岩絵が刻まれる
岩山の頂上より
グランバラの日没 8/11/2019
レストランでの民族舞踏ショー
国会議事堂 任期6年 議員定数65名でイッサ族が33席・アファール族が32席と配分されている
アラビックな馬蹄形アーチが目立つ
6月27日(独立記念日)広場
町内のたまり場のようだ
商店街に灯台みたいなデザインのアムディーモスク
1926年イエメン人が建てた
ゴミ箱もカラフル
左上の英語学校から出てきたばかりの学生 模範的でフレンドリーな英語が返ってきた
焼き魚のレストランの調理場 串に刺して窯の中でナンと一緒に焼く ハエも飛び回る
ジプチ・エチオピア鉄道旧駅舎で今は使われていない 過ってジブチ港からアディスアベバまで900kmを結んでいたが 現在はジブチ領内のデレダグからアディスアベバまでの320kmを結ぶ
9/11/2019
柱はL型鉄鋼を十字にリベット接合したもので
ちゃんと柱頭飾りがあり時代がわかる
車両もみたかったが 構内には入れず
米軍基地 いかめしい防護壁で囲われる 日本の自衛隊基地も隣接して2011年整備され 現在約300人が駐在する ソマリア沖の日本の船舶の航行の安全を確保する目的であるとされるが 中国の海洋進出への牽制との見方もある ジプチ共和国 7/11/2019